022570 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

見習い魔術師

見習い魔術師

......人魚姫......


その調べは海を惑わし
その叫びは海を狂わす・・・。
その哀しみに満ちた想いを
海の荒野に告げるがごとく。

人魚姫

昔から知られている物語。
『人魚姫』は恋に落ち、その命を海に散らした。
哀れな哀れな人魚姫。
人間を愛したために、その命を泡へと変えた。
けれどそれは。
『姫』だったから。
物語となった人魚姫。
その命は陸にも渡り、生命を宿しつづけている。
人魚を記憶から消し去った、陸の人々の記憶の中に。
もしも『彼女』がいなかったら。
人魚はすでに忘れ去られ、静かに暮らしていたのだろうか。
海の深くの流れの中に、身を委ねていたのだろうか。
哀しみという感情を胸に宿らせる事もせずに。
叶うことの無い想いなど、いくつあるというのか。
陸を愛し、陸に儚い想いを抱く者が。

暗い暗い海の中。
人魚姫は陸の王子を愛しました。
けれど、叶うはずもありません。
愛しの王子は陸の上。
人魚姫は海の中。
どうしてももう一度会いたい人魚姫は、
海の魔女に声を売りました。
そして、それと引き換えに、陸を歩く2本の脚を手に入れました。
人間になった人魚姫。
愛しの王子に会うために。
そのときには、もう、人魚姫の願いは叶うことは無かったのに。
すでに、時は遅すぎたのに。
声と引き換えに手に入れた『カラダ』。
それはすでに、その役目を失ってしまっていたのです。
暗い暗い海の底。
帰ることの叶わない、懐かしい自分の家。
海の中から人魚姫の姉達が現れました。
鈍く輝く銀色のナイフを持って。
『これで王子を殺しなさい。貴女が泡になる前に』
人魚姫の姉達は言いました。
『そうすれば貴女は人魚に戻れるでしょう』
姉達の美しい髪と引き換えに渡された、鈍く輝く『モノ』。
なんと美しい響き。
王子を殺し、人魚に戻る・・・。
王子はもう、私の手には入ることは無い。
もう、二度と。
それに、美しい姉達の髪と引き換えの、このナイフ。
どうしてこの美しい誘いを断る事などできるだろうか。
ナイフを手に取ると、それは暗い海とは対照的に、
白く鈍く光りました。
刃先から滴る透明な水は、まるで何かを欲しているよう。
そう、例えば、未だ温かい深紅の流れを・・・。

船の恐れる魔性の美女。
岩礁の上に腰を下ろし、美しい声で船を墓場へ導き行く・・・。
姿を見たものを虜にし、声を聞いたものを快楽の死へと誘う。
海で最も恐れられ、海で最も求められるもの。
潮の流れに身を任せ、波の音を親に持つ。
海の中の住民達。
声高々に唄うのは、波から聞いた子守唄。
声高々に叫ぶのは、潮から聞いた物語。
人魚の歌は喜びを。
人魚の叫びは哀しみを。
人魚の歌に波は踊り、
人魚の叫びに海は怒り狂う。
我が人魚を喜ばせしもの、願いを聞き入れ礼を言おう。
我が人魚を哀しませしもの、死の流れに彷徨うがいい。
我が娘達、人魚のために。

人魚姫はナイフを持っていました。
けれど、それは純白のまま。
一筋の穢れも持ってはいません。
『どうしてなの、人魚姫』
その問いかけに、人魚姫は哀しそうに微笑みました。
『我が妹よ、なにがあったの』
人魚姫は微笑んだまま、そっと唇を動かしました。
人魚姫には、その美しい声は残っていなかったので。
『ごめんなさい、お姉様方。私には、彼を殺す事はできないの』
その返答に人魚姫の姉達は言いました。
『どうしてなの、妹よ。あの人間どもに、脅されでもしたの。
もしそれなら、正直にお言い。私が呪ってあげましょう』
人魚姫は小さく首を振りました。
『いいえ、違うの、お姉様。彼らは何もしていないわ。
迎え入れる事も、追い出す事さえも。
私が彼を殺せないのは、私が彼を愛しているから。
私の心は、あの人のもとを離れたがらないのです』
人魚姫の姉達は、人魚姫の言葉に耳を疑いました。
『貴女は今、何と言ったの?』
人魚姫は言いました。
『私はもう、あの方なしでは生きられないのです』
『何ということ』
人魚姫の姉達は叫びました。
『あの王子は、貴女を裏切ったというのに!』
人魚の叫びに海は応え、激しい波がその表面を覆いました。
『その王子のために、貴女は命を捨てるというのか!!』
海は、すでにその姿を隠していました。
瞳に映るのは、怒り荒れ狂う白い波ばかり。
陸に生を受けた者を根絶やしにせん、と一層激しくなる白い波。
それを制したのは、美しい人魚姫でした。
人魚姫は自ら波を起こし、そのくちを開きました。
声こそ発する事が出来なかったとはいえ、その言葉は波の動きを
制するのには十分でした。
『お姉様方、お怒りを静めてくださいな』
人魚姫は言いました。
『私は彼のために命を捨てるのではありません』
『それなら何のためにその尊い命を投げだすのですか』
人魚姫は微笑みました。
儚く、今にも壊れてしまいそうな、そんな微笑を・・・。
『私自身のため』
人魚姫は言いました。
『私が幸せになるためです』
そう言ったとき、銀のナイフはその手を離れ、暗い水の中に飲み込まれていました。
『それが貴女の望む事?』
人魚姫の姉達は暗い瞳を向けました。
まるでその何もかも飲み込むような、深い海の色を映したような、
静かな静かなその瞳を・・・。
『ごめんなさい、お姉様方』
人魚姫は言いました。
『私はもう、生きることはできないのです。
海の掟を破ったので。陸の王子を愛したので』
人魚姫の言葉に、姉達は言いました。
『それだけならば、我らの王も許すでしょうに。
我らを大切にして下さる海の王ですもの、きっと許して下さるはずです』
人魚姫は首を振りました。
『それだけではないのです。例え海に戻っても、私は彼の事ばかり考えるでしょう
そして、私は陸を焦がれるでしょう。それが耐えられないのです』
人魚姫は最後に言いました。
『私は自ら海の泡へとなりましょう』
そうして人魚姫は自ら命を絶ったのです。
その美しい瞳と同じ、暗い暗い海の中。
何もかもを飲み込む色に、まるで吸い込まれるように・・・。

深い深い海の中。
命を絶った人魚姫。
その想いが叶う事は無く。
美しい調べを暗い海に響かせて。
人魚が歌を歌いだす。
今夜も導いていくために。
陸の『生き物』を、海に相応しくないその『生』を。
遠く暗い海の墓場へ、道案内をするために・・・。
美しく響く人魚の歌は、哀しみ以外は何も映してくれはしない。
むかし自ら命を絶った、人魚姫の心を映しているよう。
酷く静かな暗い海。
まるで毎夜、人魚姫を弔っているかのように。
波さえもがその声を潜め、人魚の歌を響かせている。
美しくも哀しい、人魚姫への弔いの歌・・・。

その調べは海を惑わし
その叫びは海を狂わす・・・。
その哀しみに満ちた想いを
海の荒野に告げるがごとく。

海の深くに住む人魚達は、人魚姫に何を想ったのか。
どんな想いで陸を眺めたのか。
暗い瞳の人魚達。
海を眺める人魚達は。
月の輝く夜の海に、いったい何を見たのだろう。
その瞳に映るのは、真っ暗な海に浮かび上がる、
幾多の星と白く輝く月ばかり・・・。

その調べは海を惑わし
その叫びは海を狂わす・・・。
その哀しみに満ちた想いを
海の荒野に告げるがごとく。
願いは決して叶いは決して
叶うことなく…。




© Rakuten Group, Inc.